#ffffff(1372字)

 私は虫が嫌いだ。自室で見つけると大袈裟なほどに反応してしまう。なにがそんなに怖いのか、自分でもよくわからない。子どものころは平気だったはずなのに、いつの間にかダメになっていた。

 だけど、この数日で少しだけ見方が変わった。
 これを書いている時刻は22時45分。外からは秋っぽい虫の合唱が聞こえてくる。なんだか涼しげで風流じゃないか。このところ朝は目覚ましより早く、蝉しぐれが響きわたる。うるさいだけのミンミンゼミとは違って、ひぐらしはなかなか悪くない。
 そんなふうに感じられるから、今ならきっと部屋のなかに虫が出ても跳びはねたりしないだろう。向こうが跳びはねてこない限りは。

 何が私を変えたのか――。事のはじまりは一週間ほど前だ。


 その日仕事から帰ってくると、玄関の内側に白いがとまっていた。
 驚くほどに白かった。白い壁にとまっているのに、遠くからでもはっきり見える。
 たった今思いついたのだが、この蛾に名前をつけようと思う。書いていて「蛾」という文字が似つかわしくないと感じた。これ以降「エフロク」と呼ぶことにする。
 エフロクは神秘的な白さをたたえていた。大きさは小指の第一関節くらい。11時の方向を頭にして、ピクリとも動かなかった。

 私はたぶん大人になってから初めて、まじまじと見つめるために自分から虫に近づいた。
 やはり一切、純白以外の色がない。からだもまったく動かないから、呼吸しているかさえわからない。

 物珍しさからしばらく眺めていたけれど、ずっと見ているわけにもいかない。
 私は夕飯をつくって食卓へ運んだ。気になって玄関のほうを見た。
 ――エフロクは変わらず、同じ場所にとまっている。
 食器洗いを済ませて、シャワーに向かった。
 ――エフロクは変わらず、同じ場所にとまっている。
 浴室の電気を消して、ドアを閉める。
 ――エフロクは変わらず、――。

 エフロクはまったく動かなかった。寝るために部屋の電気を落としたときさえ動かなかった。
 私はその夜、何度も枕から頭を浮かせた。定位置を見やるとエフロクがいる。
 その晩は久しぶりになにか楽しい夢を見た気がする。

 早朝、夢の続きを追いかけようとしていた私を騒がしい蝉が邪魔してくる。意識が半分覚醒した私は不安になって飛び起きた。
 (エフロクは――!?)
 視線の先には、昨日のままのエフロクがいた。


 もうそれからの生活は説明するまでもないと思う。私はエフロクが同じ場所にいるか、ことあるごとに確認した。「今度こそいなくなっているかもしれない」という不安を、エフロクは毎回ただの杞憂にしてくれた。
 そうして一日、また一日と過ぎていった。もはや部屋のなかでエフロクが飛びまわっても、私は全然不快にはならなかったと確信できる。それでもエフロクは飛ばなかった。
 ただ一度だけ、帰ってきたら頭を1時方向に変えているサプライズを受けた。が、気づかないうちに11時に戻っていて、結局エフロクが動いたところは見なかった。
 

 そして今朝、ゴミ出しから戻るとエフロクはいなくなっていた。
 私は家中の床を丁寧に掃除した。エフロクは見つからなかったから、きっと自然に帰って元気にやっているんだと思う。

 エフロクからしたら、迷いこんで出られなかっただけかもしれない。
 だけど私はこの数日間楽しかったよ。
 達者でね。

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