芹沢珈琲店(1417字)

 その喫茶店は駅から徒歩15分のところにあった。飲食店も商業施設も見当たらない住宅街に入ってきて、そろそろ引き返そうと思ったとき目に留まった。
 パッとしない見た目なのになんだか妙に気になった。立て看板のひとつもないが、別にさびれてはいない。喫茶店特有のオーラがないけれど、かといって住宅街に完全に溶け込んでもいない。こぢんまりしているけれど、入るのに勇気は必要ない。もしかしたら、そのバランス感が絶妙だからこそ、引き込まれたのかもしれない。
 俺はその店に入ることにした。

 ドアについているベルがカランコロンと音をたてる。
 店内は思ったよりも洒落ていた。カウンターとテーブル席ふたつの小さな店だが、他に客がいないせいか窮屈な感じはしない。
「いらっしゃいませ」
 店の主は俺より少し年上だろうか。30代半ばか、そのくらいに見える。
 俺はカウンターの一番奥の席に座って、立て掛けてある手書きのメニューを眺めた。個人経営の店らしくメニューの数が少なかったのだが、それ以上に気になるところを見つけた。ドリンクメニューのところ、上から順に、ブレンドコーヒー、カフェラテ、紅茶、ジンジャーエール、アイスティー、アイスコーヒー。――この並び順が変だと思った。俺の気にしすぎかもしれないが、ジンジャーエールが出しゃばっている。それにアイスコーヒーが一番下だなんて。少なくとも自分ならこの順番にしない。それでジンジャーエールを頼んでみた。

 出されたジンジャーエールは、普通だった。グラスが大きくて気前がいいなと思ったけれど、それ以外変わったところはなさそうだった。
 たかがメニューの並び、気にするほどのことではないだろう。けれど些細だからこそ気になってしまう。このメニューの書き手は、意図してアイスコーヒーより先にジンジャーエールを書いたはずだ。
 マスターのほうをちらっと見ると、奥のキッチンでなにか作業していた。その真剣な顔からして、やはりつまらないミスが原因ではない予感がする。
 
 マスターが戻ってきたタイミングで、俺は思い切って声をかけた。「メニューの字が味があっていい」という話から始めて、「面白い順番ですね」と伝えてみた。それに対する返事は予想外のものだった。
「アイスコーヒーはあまり面白くなくてね」
「僕はジンジャーエールが好きなもんだから、無意識にその順番で書いたんだと思います」
 圧倒されながらも、自分では決してたどり着けない答えをもらって、訊いてよかったとひしひしと感じた。
 アイスコーヒーは面白くない。だからメニューの一番下。

 答えをかみしめていたら、マスターがキッチンからトレーを持ってきた。
「今シナモンロールが焼けたけど、おひとつどうです?」
「あー、どうしよっかな。実はダイエット中で」
「太ってるようには見えないけどね」
「あはは、どうも。じゃあおひとついただきます」
 答えると、マスターはキウイと一緒にお皿に盛りつけてくれた。
「駅から知らない街を散歩するのが好きで、今日もその途中なんですよ」
「川のほうは通りましたか?」
「ええ」
「冬の終わりには梅の花が見事ですよ。このあたりじゃ、そのくらいだけどもね」
「へぇー、梅の花かぁ」
 特に意識しないで通り過ぎてしまったけれど、帰りによく見てみよう。木が多いようなら時季をみてまた訪れてもいいかもしれない。
 きっと、またこの店に来るんだろうな。梅の木はまだ見ていないけれど、そんな気がした。

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